pです。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
表現ということばは、英語のexpressを訳したものだ。EXというのは「外に、外へ」という意味を表す接頭語で、「press」ということば「押し出す」という意味が原意である。
外へ、ということは、もともと押し出すものは内部にあるということだ。人間は、外界から感じたものを内部に宿したり、保留したり、貯めこんだりする。そしてもちろんそれは、その段階では形となっていない。言いかえれば、文字や音声、描写、香気として外界に発する手立てがないのだ。例えて言うならば、美術館のようなアートな世界に踏み入れそれを体験する。そこで気づいたり得られたり感じいったものは必ず、その人の中に生まれる。しかしその段階ではまだ、「なんと言っていいかわからない」状況になっているのである。
その形となっていないもの、その人のなかに宿るものをなんらかの形として外に出すことを、表現と呼ぶのだ。無限で形のないものを、有限で形あるものとして押し出す、というのが表現の真意である。そしてそれは大変骨が折れる工程だ。それゆえ文章を書くというのは膨大なエネルギーを要する。
「言葉にできないくらい、いい作品だった」という表現は、表現でないのである。その「言葉にできない」をなんとかして表現しなければならないのだ。それはだれにとってもしんどいことなのだ。
表現豊かな文章は、名文と呼ばれる。
名文を書くためにはまず、悪文を書かないための訓練が必要になる。
一文がいたずらに長い文章では、読んでいてすっと文が入ってこない。理解できない。それは当たり前のことである。一般的な文章は、40~60字とされているなかで、一文が数百字を超えるような文章では、一読で理解することはたいへん難しい。前述の大江健三郎がその例である。
国木田独歩「武蔵野」より
日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染て、見るがうちに様々の形に變(変)ずる。連山の頂は白銀の鎖の様な雪が遠く北に走りて、終は暗澹(あんたん)たる雲のうちに没してしまう。
日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れむとする、寒さが身に沁む、其時は路をいそぎ玉へ、顧みて思わず新月が枯林(こりん)の梢の横に寒い光を放てゐるのを見る。風が今にも梢から月を吹き落しさうである。突然又た野に出る。君は其時、
山は暮れ野は黄昏の薄かな
の名句を思ひだすだらう。
「落ちよう」ではなく「落ちん」、「暮れようとする」ではなく「暮れむとする」と表記されている。また、「變」「暗澹」「枯林」には硬度が出ている。
文語調は、格調をもたらす。口語は、やんわりとした印象をもたらす。和文調と対をなす漢文訓読体は、ダイナミックな力感と整然としたリズムを生みだしている。
この情景には、「落ちず、」の連用終止や現在終始の多用が見られる。これによって情景を分解「しながら」ついないでいることがうかがえる。文章が歩いているのである。動いているのである。
また終止形を「、」でつなぐことによって、点描的な表現となる。武蔵野の風景を、終止形で書くことにより普遍的な状況を提示し、変わらない永遠の姿として捉えている。
文の長さにも着目したい。第二段落では比較的に、短文、長文、短文、長文と繰り返している。それにより文調にリズムが生まれる。例えば一文が百字のものの後に二十字程度の文、これがふたつほど続くと今度はゆったりしたリズムが生まれ、それを短文が吸収し、めりはりのついた文章にもなる。
風景と風景描写に、論理はいらない。それゆえ接続詞も不要である。これも、普遍的な描写が常に頭にあることをうかがわせる。
普遍性を追及する訓練をもっとしたい。こういった表現について勉強することが楽しい。
これの勉強やテクニックに触れると、今まで自分は小説というものを、表現として読めていなかったのだと自省する。そして多くの読者もそうなのであろうという予測が立つ。
表現と感受性は表裏一体である。
]]>ノーベル文学賞を受賞した日本人は、二人しかいない。
以下の文章は、大江健三郎の『「職業としての作家」・「別冊・新評」1972年春号』より抜粋したものである。
いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することはできぬであろう、ということにほかならないが、あらためていうまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省すると時、すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである。
そして大江健三郎は、ノーベル受賞者である。
誕生日プレゼントには形の無いものが欲しいです。思想や知力。形のない故に蓄積となるもの。
pです。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
自分が好きなものは、褒めたくなるものです。例え、その好きなものを客観的に批判できる箇所を認識していても。
それを「善の解釈」呼ぶことにします。
この善の解釈を渋る人々がいます。その中にはさらに批判や中傷に立ち回るのみの人々もいます。
善の解釈、好きなものが好きだと言えることは、心を豊かにするものです。
再拝。
]]>
pです。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。
メディア露出を徹底的に控えるというバンドマネージメントも、綻びを見せてきた。
今月の20日、バンドスコアがローンチされる。
いわゆる耳コピをしてきた私としては、残念なことこの上ない。
バンドスコアが巷に出回るにつれて、コピー対象としての演奏側的希少性が著しく逓減するだろう。
そんな中、予てからのコピーバンドでのステージ登場がスポイルされそう。
相対性理論のバンドコピーというものに対するモチベーションがかつてないほど下がっている。
「私は、悪くない。」
それ故、周囲のバンド人を歯牙にもかけぬよう、一人作曲に勤しんでいる。
三月五日。
夢枕に、亡くなった祖父が立つ。起床すると、涙が流れていた。
祖父は浄土真宗の流派で葬儀を執り行った。東本願寺に参ったことが許してくれたのだろう。神仏の存在を肯定するようになる。
宿で朝食。
自転車に乗って、目指すは京都二条城。大政奉還が行われた、現代政府の原点。
会場とと同時に入場しただけに、先客がいない視界はかくべつに良い。庭先を眺めつつ、立てた茶と菓子を座敷でつまむ。快晴に緑が映え、穏やかであった。
阪急に乗り、西宮へ。宮崎あおい主演の舞台「その夜明け、嘘」を鑑賞。物心ついてから初めて見た舞台。千秋楽ということでカーテンコールは三回。
初めて生で見た宮崎あおいは、小さくてかわいい恐竜だった。
京都に戻り、清水寺へ。ここでも本尊御開帳をしていたが、時間帯が会わずに見逃す。旅館「りょうぜん」を地図で見ながらニヤニヤしては、土産小路を歩んでみる。二度目の二条城と清水と、歴史的な建築物はやはりいい。
ひさごという料理屋で、鴨南蛮蕎麦を吸い上げる。るるぶに載っているだけ、うまい。小路に値の張りそうなカフェがあり、窓から中を覗いてみると石庭に笹、流水と、いかにも和カフェであった。
三月六日。
雨降りの中、京北へ。
京都の地下鉄からバスに乗り継ぎ、源光庵へ。こちらも会場してすぐだったので悟りの窓、迷いの窓ともに、独り占めできた。二条城といい、源光庵といい、朝とはいえ運がいい。
悟りの窓を前に正座し目を瞑ったところで「哲学とはなにか」は悟れるはずがない。しかし、迷いの窓の前では別であった。将来に対する不確実性が忍び込んできた。迷いとは不確実性だったと諭された気がして、一寸怖くなった。
血天井に浮かぶ足跡を見て、自刃した武士たちに思いをはせる。血と脂で固まった手足の跡。寺であれば、坊主である。
「つれづれなるままに」と表紙に題打った帳がおいてあったので、「悟りの窓から見える紅葉に憧憬」と記帳し、大徳寺へ向かった。
高桐院。雨が降っているからこそ良かった。この場所は宮崎あおいのお気に入り情報ということで一行は会えるのではと期待。昨日の舞台を思い出しながら雨の庭を望む。
神賀茂神社へ。このあたりで、世界文化遺産や国宝というものへ悪い意味で慣れてくる。鳥居と境内を結ぶ長い歩道を歩くと時代を遡るように感じた。葺きものを変えるということでの布施のようなものがあり、芸能人の名が並んでいた。それから草餅と三色団子を買う。
今井食堂という、年季のかたまりのような食堂へ。土地柄、野球関係のサインや写真が多々あった。ここの定食のコロッケが、このうえなく美味しい。今まで食べた中で一番美味しいと思ったコロッケだった。一行のような観光客から地元のサラリーマンまで、うまいと口にする味である。
竜安寺が石庭。枯山水の代表格を拝見。残念ながら補修中だったので趣があるままには見れなかったが、それでも十分なほどきれいである。重なって見えない岩、奥行きを錯覚させる傾斜。水を使わず水を表す。
嵐山界隈。天竜寺へ。鮎を行商する「桂女」に名を由来する桂川。渡月橋。建長寺船に天竜寺船。嵐山は、山であるのに水の「縁語」が多い。和歌を詠む気持ちも伝わる。古典、古代史に通ずると、とても京都は面白い。バックグラウンドがあれば、歌舞伎も京都も絵画も、伝統文化はすべていっそう面白い。
竹林を歩く。「破竹の勢い」という話をしながら、「竹はそうそうに折れない」と言い放った矢先に、眼先には真っ二つに折れた竹が数本。「俺の話は破竹の勢いで崩れた!」とヘラヘラしながら、カフェで鮭の出汁丼を食べる。
三月七日。
稲荷神社へ。何千本もの鳥居をくぐる…には時間が取られるすぎるので、最初の休憩所まで登り、引き返す。鳥居提供者の名前を見て、宮城県だの江戸川区だの、電通だの言いながら山を下る。
稲荷なので、狛犬ではんなく一対の狐がいました。
東福寺へ行くのに電車でひと駅。東司(禅寺のとなりのトイレ)では日本最古最大の重要文化財がありました。通称「百人便所」。公家に献上される京野菜には下肥が重宝されていたとか。
銀閣寺界隈へ。哲学の小道を右手に上り、銀閣寺。店先のおやつを片っ端から食べつくす。抹茶シュークリームが、食べるとクリームが溢れだすギャグでした。哲学の小道を歩いても、思索にふけるには快晴過ぎた。
銀閣寺は屋根の補修張替(杮葺き)をしているようで、それは何十年に一度しかない、かえって珍しい時期だったので、銀のかけらもない、プラスチックにおおわれた銀閣寺を望んできました。東求堂同仁斎といえばわびさびのなかでも最も代表的な建物。上がってお茶でも飲んでみたい。
浄土宗を彷彿させる法然院。中の一角では、現代絵画の展示会が開かれていた。棺のような盛り土。
南禅寺。ここは、日本史履修者として、この京都旅行で一番バックグランドある場所でした。キーワードは、「狩野永徳」。水道橋も日本的に古くてよかったです。重要文化財「三門」という門に時間一杯登れたので、門から視察哨戒する兵士の気分で、京の街を一望。携帯のカメラで撮影していると「これUFOじゃん!」とはしゃぐ一行。
スフレ専門店でお茶をしたあと、日蓮の分骨がある場所の前を通って、帰る。
厚みがかった雲。
港に見える橋と、その向こうに勤しむクレーン船。
ホテルのチェックアウトを済ませタクシーに乗り込む。空港までの距離がとても短く感じた。
空弁を探す。泡盛ばかりのフェースが一角を占める中で、タコライスとポーク卵、うっちん茶を購入。どこまでも沖縄を味わう。
流体力学の粋、美しい流線型に搭乗。窓から見える雲と「宇宙」。視界に別の旅客機が見え、焦燥感。
関西に着陸。特急電車に乗り換え、京の都へ揺られる。
二度目の京は、曇り。三方山囲いの盆地。底冷えの冷気。懐かしい古風が染みる。
ホテルにチェックインし、荷物をまとめて、自転車を借りる。洛中洛外サイクリング。
弘法大師空海が東寺へ。バスケが強いという洛南高校に隣接しており、学生が目に入る。東寺といえば無論、曼荼羅。三次元で表現される立体曼陀羅。時期に富んでいて、観智院と五重塔の御開帳を拝見。
「ダイチのチは観智院のチ。」
観智院には、枯山水がある。空海が唐で密教を習得し、その帰国途中の渡航を描いた石庭。
「向こうに見える石は中国大陸を表しておりまして、こちらは日本大陸。中ほどに見えますが弘法大師一向の船。そちらは亀で御座います。荒れる海の神に宝具を捧げ航海の無事を祈念しているところを描いた庭でございます」
「こちらは、かの大剣豪宮本武蔵直筆の竹の絵でございます。節の部分が刀の鍔のように太くなっているのは剣豪宮本武蔵らしい大変力強いものになっておりますが、宮本武蔵は敵対する剣客から逃れるためにこちらに身を隠したため、師を持たずに独学で絵を学んだのです。またこちらは「寺伝」となっております。」
歴史を恥ずかしいくらい知らない人でもわかるよう、よく敷衍してくれました。
五重塔の中には、歴史の長物らしい色が擦れた絵が描かれていて、神秘的。塔の存在意義を知っていると、なおさら面白い。
西本願寺へ。勿論、浄土真宗の本山。祖父は、浄土真宗にて葬儀。この旅行で最も思いを込めた合掌でした。親鸞聖人の750回の法要であったけれど、750回忌の親鸞聖人と悪人正機説とは葬式で引用した思い入れある言葉。
自転車で、上る。京都御所の中を砂利にタイヤをとられながら、東に大文字焼跡地を望む。紅白梅が趣があって、和服の子連れも見栄える。それを写真に収めたり、松と紅梅と白梅の交錯点を探す。
日も暮れてきたころ、鴨川を下る。写真は、絵になるところを、と様々な視点からアプローチしては納得の一枚を模索。川中の飛び石は見ていて飽きない。
三条で、落し物を拾う。財布、印鑑、通帳、保険証…あらゆる個人情報のほとんどがそろっていた。自転車屋に交番を尋ね、届ける。待ち時間の間、行方不明者リストの中から女子大学生を発見。池袋で消息をたったようで、池袋は怖いと二人で呟く。
一件が落ち着いたころには夜になっていた。予定していた寺巡りは八坂神社までで打ち止め。以降はキャンセルし、夕飯へ。ひとつ下った祇園四条へ。某所に鍋が安く食える店があり、入店。
数分後、危機回避。あの時は気が動転していて、正常な判断が欠けていた。生命の危機を感じる。
完全に意気消沈、怪訝な二人。逃げることに気を取られ、吟味もせず天ぷら屋へ入る。その店のコストパフォーマンスはよろしくなかったが、それも正常な判断ができていなかったからであろうか。
伊勢丹で翌日の朝食を買い込み、就寝。忘れられない一日となる。
再拝
宜野湾へ。海が見たいと言うので、初日に満喫したトロピカルビーチへ。風が強く曇天ではあった。海は依然として爽やかなれど、陰りが見てとれる。コンベンションセンターは、落ち着いていた。
昼下がり、土産を買うべく国際通りへ。二人で沖縄屋本店の図体の大きさに不満をもらし、送料の相場を計りつつ小さな土産屋を訪れて、紅芋タルト等の買い物を済ます。小さな小瓶いっぱいのカラフルな星の砂を「これも袋にいれておきましょーねー」。琉球の人柄が伝わる方言。後に、酒の肴となる。
塩屋に入ったり、岩塩の照明に憧れる。チャットモンチーのアルバムの御使いも頼まれたのでタワレコへ足を運んでみると、バンアパのコーナーが設置されており、画面には「Waiting」のPVが流れていた。アルバムは探させて、自分は、釘づけになる。バンアパは東京は板橋のバンドだが、那覇の一角で佇んでいる。遠方の方々にもこの素敵な音楽を知ってもらえれば嬉しくなる。
沖縄らしいコンクリ打ちっぱなしの門構え、現代的な立て看板を掲げる、首里天楼で飯を食う。店内は流水を跨いだ座敷にて、琉球らしい趣があった。ソーキそば等の麺を吸い上げ、青マーチの一向は待ち合わせへ向かった。
海中道路をふらふらと走り小島へ。平安座島だったか。いっぷく屋というカフェへ。ここのカフェが殊更素敵であった。理科好きな私の心をくすぐる、実験器具の中の星の砂。三角フラスコが、素敵。ぜんざいを掬い上げつつ窓の外を指さして「あそこの海に入っている親爺は、果てしなく胴長だ!」と右脳発言をする一向。発起は、浜からよほど沖にいるところを見つけた私からであったが、そこから目が離せなくなった。
その帰途に、HYの由来を見たり、前を走るプレオの中の子供に手を振ったり。
沖縄の女子高生は、ショートソックスをはくようで、それが非常に面白い。車窓から逐一突っ込みを入れるが、対象が多すぎて突っ込みが間に合わない。「顔が濃い!顔が濃いのにくるぶし!」「ヤンキーだ!ヤンキーでもくるぶしはいてる!」意気揚々とする。
陽が落ちると400キロ走ったレンタカーを納車し、北谷食堂へ。労いの飯を畑山へ。海ぶどう、ラフテーをつまみつつそばを吸い上げたり、にんじんチャンプルに箸を伸ばしながら、小学生の時代に思いを馳せて、笑った。飯も、うまい。酒は、名護のパイナップルワイン。食後には夜の海を拝みに一寸歩く。やはり、吸い込まれそうな怖さがあったが、遠くに見える観覧車がきらきらしている。等閑なスケールで丁度良い。
外人墓地が街中にあるというので、そこへ連れて行ってもらう。隣のコンビニに車を止めるが、ヤンキーが絵に描いたようにたむろしていて、それを鼻先であしらいつつ墓地のフェンスを飛び越えるかどうかで躊躇する。
車に乗り込みブルーシールへ。アイスを買って、謝刈交差点へ。夜景のきれいな坂に駐車、ニヤニヤしながら夜景を見て、このスポットを味わう。しみじみと、時間を意識し始めたのは私だけであったのだろうか。
それからホテルまで送ってもらった。「あ、ここ一方通行!」と、見送る車に言い放っても後の祭り。笑う。
そうして、沖縄の夜が、終わった。
ホテルのパソコンは、未だに私を助けてはくれなかった。
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]]> 朝から車に乗り込み、島北を目指す。立体交差等が架かる道路を進み、高速道路に入った。パーキングエリアで朝飯を買いこむ。ジューシーという炊き込みご飯のお握りとルイボス茶を飲みながら約2時間半のドライブを楽しんでいると、推定時速120キロで突進をかける車を横目した。この日もまたたがうことなく、沖縄の車文化を考える。
美ら海水族館へ。花からできた鮫のオブジェが、かわいい。平日だというのに、大いに賑わっている。チケットを買い改札をくぐると海星を実際に触れることのできるスペースがあった。硬い。
カクレクマノミやウツボ、見たこともないような魚類がいたが、やはり巨大水槽は圧巻だった。日本最大級の大きな水槽に、大きなジンベイザメやマンタなどが回遊している。小判鮫がかわいい。三体の鮫を同じフレームに収めようとシャッターを切るのに勤しむと、実はお手前が見えなくなるのであった。巨大水槽に使われる大型ガラスと、それを繋げる特殊接着剤の屈折率の蘊蓄は知っていたが、やはり目の当たりにすると、ただ雄大さを感じる。
お昼を済ませたあとに、イルカショーを見る。最前列から二列目までには飛沫が飛ぶので五列目に陣取り、長いチュロスを食い啜りながら開演を、プールサイドでSwimmingするベテランイルカと待つ。イルカの加速は目にも止まらず、そのジャンプは高かった。ベテランイルカは、褒美に駄駄をこねる芸を見せるが、飛沫を飛ばす腕は流石であった。BGMは、Flowのメロスがリピートしていた。
波打ち際まで下ると、一人でいた男に写真をとってくれと頼まれ、相互に海の向こうにみえる島をバックに撮影。
海亀やマナティーを見た後、車へ戻った。駐車場は、「わ」ナンバーで溢れ返っていた。
今帰仁城には、首里城かは万里の長城のような石塁があり、木が根を強く張っている。物見櫓の機能は健在だが、生活感が取り除かれているので、南部とは違った虚無感があった。ここでも、サーターアンダギーを食べる。琉球村のほうが、うまい。
古宇利大橋を渡り、島を迷走した揚句にカフェへ辿り着く。テラスからの眺望を正面に抹茶ケーキに舌鼓を打ち、寒いくらいの風の中、アイスコーヒーを飲む。さっき通った大橋と、島と、雲。どこか松島のような雰囲気もあった。
名護を通り、パイナップルパークへ。非常に残念なことこの上ない糞カートに乗り込み、数分の茶番ツアーに付き合う。
しかし、その後の試飲試食し放題は良かった。進んでは戻り、進んでは戻り、腹が足りてくる。ワインが美味く、二本購入。うち一本は間接照明からの光が照り映ゆる琉球ガラスに詰められたもので、気に入っている。帰宅後、パイナップルワインとマリブをビルドしてみる。シークワサーのジュースもうまかった。パイナップルの果肉は、吹っ切れた後は間髪入れずに口へ放る。
夜はおもろまち界隈のカフェへ。店内は一行を除き全員女性であったがこれといった疎外感はなく、さつまいも、鶏肉、カボチャを煮込んだものを美味しく頂いた。ここのトイレは、素晴らしい。
その後はグッドウィルというパソコン屋に立ち寄り、デジカメ用にSDカードを購入。2GBで五百円。サンエー那覇メインプレイスに立ち寄り、沖縄のスーパーを覘いてみる。たらの芽を発見。山から採ってくる家のものにとっては、意外と高価に感じた。沖縄のビール消費量は金額ベースで年間1万4千円と全国最低であり、泡盛への嗜好性が高いことと、サンエーの旗艦店であるだけに、泡盛の品ぞろえは良い。
粒状洗剤を買い、ホテルへ戻った。
ロビーのパソコンは、相変わらず使い物にならないままである。
再拝
]]> どよめく朝に、起床。目覚めは覚束無く天気は四部の曇り。
シャワーを浴びて支度を始めるころには雲の隙間から陽が差し込む。レンタルパソコンを閉じ込みフロントへ返却した後で、チェックアウトを済ませた。
美栄橋へ向かったところで友人Kと待ち合わせの電話をつけた。沖縄の海を彷彿とさせる鮮やかなブルーのマーチで路肩に現れ、飛び乗って発進。幸先はいい。
この日は南部へ車を走らす。朝飯にポーク卵おにぎりとLG21を買い込み、この日も車線変更時にウィンカーを上げない仕来りに驚愕と感嘆を口にして、斎場御獄を目指す。左手に東を望み、海がが広がる道路に出るが、運転手のKはそれどころではなく集中していた。「俺はひとつのことしかできない。」
遥か遠い南西の海底に築かれた遺跡として、ニライカナイという名前と信仰概念は存じていたが、その名を負う橋の大きなカーブを駆け上がった折りのパノラマは、橋下駄と気団空間の配置がすばらしく、海と空の眺望に感動した。登りきるとトンネルがあった。助手席から窓の外に手を放り出し、デジカメで二人と車内を撮影。この時、半そでのTシャツ1枚である。
斎場御獄へ到着する時には少し晴れていた。「斎」という字が宗教字ということは知っていたが、神聖な場所というのは、土地柄あいまって、陽が入らないイメージがある。まるで崖のように背の高い、堀し出した岩肌から伸びる鍾乳洞あるいは「酸化雨」にただれた金属のような質感・表面の二本の岩先から滴る雫と受け壺いう呪術的場所。大きな一枚岩が二枚、もたれかかる様に立てられ、穿たれた空間の先から回析する光がトンネルの奥行を長たらしめる「三庫理」。そこを通って見える物見からの景色は、緑が額になる天然のフレーム。海が映える。
「烽火三月」とはまさにこのことであった。
斎場御獄を発ってからは、有刺鉄線が立ちはだかる沖縄刑務所の前を通過して、ハーブを使ったアジアンカフェ「くるくま」に向かう。アセチレンボンベがある駐車場は満席で、すこし距離を置いた場所に駐車。有名どころには人が集まるので、入店できるまでの待ち時間に大きなクリスタルを見たりアンモナイトの化石に手を触れてみたりした。ウミガメがいたり、黒猫がいて、なついてくる。二酸化ケイ素化した木の化石「珪化木」から成るテーブルをなであげては、感動する。雨ざらしながら、なんとも素敵なテーブルである。
カフェではカレーとナン、それとハーブを使ったサラダで昼餉。案内された席は窓際で海を一望できた。青空と海は、いい。
大食いに自信がないわけではなかったが、サラダは食い上げきれなかった。初日のこととあいまって、悔やまれる。非力さを痛感。
三基のうち一基しか稼働していない風力発電のユニットを見ると、南部らしい「死」を感じた。
午後になって平和祈念公園へ車を走らせると、仲村渠という地名が道路地図に書かれてある。苗字がもともと土地や屋号に由来するものだとは思っていたが、沖縄はそれが多いのであろうか。儀保もそうである。
到着後すぐに献花と線香を売り込むおばちゃんがいて、それを受け取り宮城県の戦没者を祀る「宮城之塔」に献上した。入口からは遠い場所に置かれてしまったが、海に付し、風が気持ち良い箇所であった。
都道府県別の祈念碑が並ぶ中で、一際立派な塔がある。日本列島改造論を唱えた田中角栄を誇る新潟である。何がなくても道路がある新潟。権力を感じる。
そして、名前。あれほどの名前が並んでいると、体の芯から震えてくる。南部には死霊やそれの祈念の、どこか死者を身近にというか、肌身に付すかたちで置くような文化を感じる。(帰京してから新宿で辺野古についての本を手に取ったが、糸満の集団自決の数は軍を抜いていた。再訪する時は文献を読んでからにしようと決めたので、また違った見聞になるのだろう)
弔いの名前は何万人と碑に掘られているが、端数が無い。綺麗に五百人単位であることから導き出される解答は、未知数、変数、不明数。
そして、海を見た。珊瑚がある浅瀬は色が明るく波が穏やかであるのに対して水深があるところは色が群青で、境には白波が立つ。某所の建物の中で、垂れ流しのVTRから泡盛が何たるものかを知った。
その後、ひめゆりの塔へ向う。
ここは、気が滅入る。黒の質量体が歪(ひず)み発生させるように、特異点へ向けて心が落ち込んでいく。落ち込む。壕と死臭、ひめゆり学徒、解散。一人一人の性格が一言添えられた顔写真が並ぶ部屋には、心打たれた。生き残った住民のコメント映像も浸み入る。小学生の折に、生存した女性を体育館に呼びあげて話をしてもらう機会があったが、やはり実体験ある人の口から語られる戦争の実情というものは凄惨なものだ。戦略や戦争の経済学を忘れさせる程に心を黒くする。この場所が最も、戦争を自分の中に取り込める場所だったと思う。東風平は読めたが、以前は読めなかった南風原という地名がひどく心に残った。
ひめゆりの駐車場で気分一新、ジェラートなんかを吸い上げながらサトウキビ搾取器を見たりした。
日が暮れてきた頃に、瀬長島に行き、橋の中腹に車を停める。腹を見せて真上を飛び行く飛行機と轟音。近場で見れば見るほど、巨体である。
大して腹が減っていないという二人は何も食わずに、tiltが出演するライブハウス「k-mind」へ向かう。帰宅ラッシュが始まって道が混んでいた。場所を確認した駐車場の具合を尋ねると「田園書房を使うといいよ」極東ピーコックというバンドである。素敵。
一見さんへの説明は「銀杏BOYZテイスト」は確かに感じられるが、一線を画していてかっこいい。ティッシュを配るというオノチンよろしくを見せ、口ベタと伺えるボーカルのMCがあると思いきや開放弦のみを用いた音符をアシンメトリーに配置したようなリズムフレーズは実に見ごたえがあり、Still AwakeのPVの様に後でパート別に再生したくなる。かっこいい。ベースはやはり黙々と、虎視耽々とフレーズを埋めていた。大史も同様で、私とは正反対のタイプである。群青日和が一番速いと言っていたtiltが16分を刻んでいた。面白い。ハルキタイム。実に面白い。
ライヴ終了後、一寸の時間tiltとDが話をする時間があった。
ホテルにチェックインし、一段落付いたあとその日撮影した写真をSDカードからUSBフラッシュメモリに転送しようと、ロビーの隣にあるパソコンに向かった。USBハブのフロントポートが狭く、正面に用意された2つのポートはまるで使えない。仕方なくラックに納まる筺体をひねり上げ、マウスをフロントポートに接続し、SDカードをバックポートにねじ込んだ。
フリーズ。強制終了を、バディー・リッチが降霊したtiltよろしくで連打。
「馬鹿が」とつぶやき転送を諦め、配線を戻して部屋に戻った。
馬鹿は自分である。
再拝