pです。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
表現ということばは、英語のexpressを訳したものだ。EXというのは「外に、外へ」という意味を表す接頭語で、「press」ということば「押し出す」という意味が原意である。
外へ、ということは、もともと押し出すものは内部にあるということだ。人間は、外界から感じたものを内部に宿したり、保留したり、貯めこんだりする。そしてもちろんそれは、その段階では形となっていない。言いかえれば、文字や音声、描写、香気として外界に発する手立てがないのだ。例えて言うならば、美術館のようなアートな世界に踏み入れそれを体験する。そこで気づいたり得られたり感じいったものは必ず、その人の中に生まれる。しかしその段階ではまだ、「なんと言っていいかわからない」状況になっているのである。
その形となっていないもの、その人のなかに宿るものをなんらかの形として外に出すことを、表現と呼ぶのだ。無限で形のないものを、有限で形あるものとして押し出す、というのが表現の真意である。そしてそれは大変骨が折れる工程だ。それゆえ文章を書くというのは膨大なエネルギーを要する。
「言葉にできないくらい、いい作品だった」という表現は、表現でないのである。その「言葉にできない」をなんとかして表現しなければならないのだ。それはだれにとってもしんどいことなのだ。
表現豊かな文章は、名文と呼ばれる。
名文を書くためにはまず、悪文を書かないための訓練が必要になる。
一文がいたずらに長い文章では、読んでいてすっと文が入ってこない。理解できない。それは当たり前のことである。一般的な文章は、40~60字とされているなかで、一文が数百字を超えるような文章では、一読で理解することはたいへん難しい。前述の大江健三郎がその例である。
国木田独歩「武蔵野」より
日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染て、見るがうちに様々の形に變(変)ずる。連山の頂は白銀の鎖の様な雪が遠く北に走りて、終は暗澹(あんたん)たる雲のうちに没してしまう。
日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れむとする、寒さが身に沁む、其時は路をいそぎ玉へ、顧みて思わず新月が枯林(こりん)の梢の横に寒い光を放てゐるのを見る。風が今にも梢から月を吹き落しさうである。突然又た野に出る。君は其時、
山は暮れ野は黄昏の薄かな
の名句を思ひだすだらう。
「落ちよう」ではなく「落ちん」、「暮れようとする」ではなく「暮れむとする」と表記されている。また、「變」「暗澹」「枯林」には硬度が出ている。
文語調は、格調をもたらす。口語は、やんわりとした印象をもたらす。和文調と対をなす漢文訓読体は、ダイナミックな力感と整然としたリズムを生みだしている。
この情景には、「落ちず、」の連用終止や現在終始の多用が見られる。これによって情景を分解「しながら」ついないでいることがうかがえる。文章が歩いているのである。動いているのである。
また終止形を「、」でつなぐことによって、点描的な表現となる。武蔵野の風景を、終止形で書くことにより普遍的な状況を提示し、変わらない永遠の姿として捉えている。
文の長さにも着目したい。第二段落では比較的に、短文、長文、短文、長文と繰り返している。それにより文調にリズムが生まれる。例えば一文が百字のものの後に二十字程度の文、これがふたつほど続くと今度はゆったりしたリズムが生まれ、それを短文が吸収し、めりはりのついた文章にもなる。
風景と風景描写に、論理はいらない。それゆえ接続詞も不要である。これも、普遍的な描写が常に頭にあることをうかがわせる。
普遍性を追及する訓練をもっとしたい。こういった表現について勉強することが楽しい。
これの勉強やテクニックに触れると、今まで自分は小説というものを、表現として読めていなかったのだと自省する。そして多くの読者もそうなのであろうという予測が立つ。
表現と感受性は表裏一体である。
PR