pです。皆さんいかがお過ごしでしょうか。東京に戻ってきました。
去年の夏、7月2日に祖父が逝去し、続けてもう一人の祖父も今月1日に亡くなりました。享年89歳でした。水が溜まった肺は見事完治したのですが、体力の衰えが激しく、しかしながら家族に見守られ、とても静かに息を引き取ったそうです。
亡くなった祖父の親戚は多かったです。戦争という激動の時代を農家の9人兄弟の長男として生まれ、火葬のときには親族でけでも80人は超えていました。棺に花を入れるときには花が足らず生花から折り取っていました。外務副大臣や他の議員の弔電等、夏に亡くなった祖父も同様に、やはりうちの家系の人は皆秀逸な人生を全うしているようです。なかでも祖父は宮城県にある某大学の創設に携わったと聞きました。家の敷地は広大で、東京から脱俗したら真に自然に帰ることも考えました。
法事では最高位の緋の衣が用いられておりました。小学2年生のひ孫がお別れの言葉を述べました。「バイバイしても、おじいちゃんはバイバイしてくれませんでした。握手しても、いつもなら手を握ってくれるのに、握手してくれませんでした。」涙が止まりません。止まるわけがありません。
総じて、今、精神がぐちゃぐちゃです。家族のありがたさを受けては一人暮らしの寂しさに急に襲われ、喪に服すべきがしだいに俗へと流転していく。もうどうしようもないので、流れていくことにしよう。
そういえば「どんな罪悪感も薄れていく」なんて言われたことがあったなぁ。
でも、今のところ、大丈夫です。
「死は続く。」一番最初にこの悲報を友達へ知らせたとき、こんなメールが返ってきました。私は生と死では後者のほうが大きいと思ってしまう。比較する事の観点からは好ましくないけれども、現実を前には綺麗事に成り下がらざるをえなく感じる。ゆえにどうして死はいつもこうなのか。死の前の騒動とは、自分に現実に降りかかってくるまでは無関係なのか。今までは死は疎むべきだと、死期の見える人に会いに行くのを拒んでいたけれども、この態度は廃棄しようと思う。
ACIDMANの新譜のエンディングだけを聞いています。泣いてしまうけれども。
一寸疲れたので、眠ろうと思う。
再拝